スペイン、そして能登から

スペインと能登のことを主に書いています。

女性闘牛士 マリパス・ヴェガさん

もういつの頃かは覚えていないが、NHKでマラガ出身の女性闘牛士である

マリパス・ヴェガさんのドキュメンタリーが放送された。

スペイン好きとはいえ、闘牛はかなり敷居が高いので、見たことはないが、

男性社会で奮闘する彼女のことをずっと忘れることはなかった。

マラガを訪れた時も、アラブの城壁アルカサーバから街を見下ろしたときに、

闘牛場を見て、まず彼女のことを思い出した。

マラガの闘牛場での初めての女性闘牛士の出場が彼女だった。

結果は華々しいものではなかったが、これは牛の方に問題があるらしく、

観客からは牛を替えるようにとの要請があったが、審判が替えなかったのだ。

それでも、彼女の演技に観客からは惜しみない拍手が送られた。

 

なんとこの番組が令和元年の今日、放送から約20年を経てNHKで放送された。

放送されたのは2000年とのこと。当然、画面も四角い。

当時彼女は26歳。44歳の現在も現役の闘牛士として活躍しているが、

彼女を巡る状況はあまり変わらないとか。

スペインでは、ジェンダーによるパートナーへの暴力が非常に多い。

日本でもドメスティック・バイオレンスとして定着してきたが、

スペインでは、毎年多くの女性がパートナーの暴力によって死亡している。

政府の救済措置も後手後手になっており、助けられる命も助けられなくなっている。

社会、経済状況など理由は様々だが、なんといってもこの国の長い歴史が

背景にあるように思えてならない。

MACHISMO、日本では男尊女卑。

女性の参政権フランコ将軍の独裁が終わるまでは認められていなかった。

女性は男性の所有物でしかなかったのだ。

これが現在でも影響していると考えるのは当然だろう。

そんな日本以上の男性優位の社会、さらにその中でも男性による社会に

身を置くマリパスさんの苦労は想像を絶するものであろう。

もちろん、彼女の才能を認め、後援者となっているのは男性であり、

チームの全員が男性である。すべてのスペイン人男性がコテコテの

マチスモだとは思っていない。

それでも、厳しい世界であることには変わらない。

彼女のインタビューを聞いていて思うのは、何よりも「闘牛が好き」だということ。

お金や名誉のためでなく、純粋に闘牛という競技が好きなのだ。

角で突かれて大けがをしても、決してやめようとしない。

さらなる高みを目指して日々精進している。

 

昨今、スペインでも動物愛護の観点から闘牛を禁止する州が出てきた。

その最たるものは、あのカタルーニャであり、バルセローナの闘牛場は

おしゃれなショッピング・センターになっている。

 

牛も確かにかわいそうな気もする。しかし、これまでの闘牛の歴史の中で

命を落とした闘牛士も数知れない。

ロルカの詩でも闘牛士の死が詠われているように、人間も牛も同じように

命がけなのだから。

 

スペインの「国技」と言われた闘牛の在り方もかわりつつある。

それでも、命と名誉をかけて、雄牛に挑む闘牛士の姿が

見られなくなるのは寂しいと思う。

スペインの人々はどのように思っているのだろうか。

 

 

 

 

 

ボディ・トーク療法、やっぱり凄い!

 三月にボディ・トークのセッションを受けた後、自分の変化が多すぎてついていけていない気がする。

 レポートされた中で、13歳の時の両親による虐待(?)について。

 これは、まるで今起きたことのように記憶が鮮明に蘇り、驚きを通り越して、呆然としてしまった。その場面で母に言われた言葉こそが、これまでのセッションで頻繁にレポートされた「私でなければ、よかったのに」という自分を全否定するもの。

 言った本人(母)はただの八つ当たりの一環だったかもしれないが、言われた方はこれを何十年も引きずることになった、結果として。

 その時にその場にいた愛犬・しろがずっと私を見上げていたことも思い出し、しろと一緒に家出をしようとしたことも思い出した。

 丁度そのころは、母の母、つまり祖母が亡くなり、家族の中のバランスが大きく変わってきたことから、両親の関係が悪化したこともあり、両親ともかなりのストレスを抱えていたのだろうと想像している。

 今だから冷静に分析するものの、当時は自分が全部悪いような気がして、居心地が悪くて何をしても落ち着かない感じだった。親の言葉はそれほど子どもの発達に影響するのだ!

 二、三日はこのイメージを引きずっていたが、愛犬・しろの存在感が自分を助けてくれたので、徐々に母の言葉の束縛から解かれていくのを感じた。

 さらに驚いたことには、数日後、七里ガ浜の美容院にいった時、時間つぶしに眺めていた雑誌に長谷寺売店で販売している精進カレーなるものを見つけた。すぐにそんなことは忘れていたが、江ノ電が長谷に着いた瞬間、電車を降りてしまった。「カレー、買いにいくのか・・・」と思い、長谷寺横の売店でカレーを購入し、江ノ電に戻ろうとしたとき、ふと大仏に行ってみたくなった。平日にも関わらず混雑していたが、大仏を見た瞬間、またしても13歳の時の記憶が蘇り、涙が止まらなくなった。

 まさに13歳の時、修学旅行でここに立っていた。楽しかったのかどうなのかさえ今では覚えていないが、ここに立っていたのは確かだ。

 今では高徳院も外国人観光客でいっぱいになっているが、当時はそうでもなかったのか、あまり外国人観光客の姿はなかった。

 あの時、自分はここで何をしたか? なんと外国人観光客に英語で話しかけたのである! 内容は大したことではないが、英語が通じたことがとても嬉しかった。

 自分もやればできる!そんなことを感じていた。

 大仏はそんな自分を思い出させてくださったのだ・・・

 しかし、そもそもはボディ・トークのセッションがなければ、この記憶も潜在意識の奥底で眠っていたことだろう。

 なんでも自分が悪いように感じて過ごしてきた長い年月も、その原点がどこにあったのか、何だったのかがわかれば、それほど怖くはない。自分に原因があるわけではない、人の言葉で縛られていただけなのだから。いや、人の言葉で自分で自分を縛っていたともいえるのか。

 ボディ・トークのセッションの中では、思い出しだしたくないこともレポートされるかもしれないが、自分が潜在意識の奥底に閉じ込めた記憶を探ることで、心が身体に及ぼす害も排除されていく。超科学的な療法だが、もっと多くの方にこの療法が伝わるとよいと思う。必要としている方がたくさんいるのだから。

 

Ministerio del Tiempo

"Ministerio del Tiempo"は、スペイン国営放送制作のテレビドラマである。

その内容としては、「時間省」というお役所が、スペインの歴史に歪みが生じないように守っているというもので、省内にある各時代と繋がった扉からエージェントが、その時代に行き、歴史が書き換えられるのを防いでいるという設定だ。

全く科学的なニュアンスがないので、ファンタジーというところか。

でも、自国の歴史と自局の番組のセルフ・パロディという方があっている。

そもそも、誰が歴史を変えるのか・・・という疑問が生じるが、何かの偶然が重なって、現在認識されている歴史にならないことがあるという前提のようだが、現在から派遣さえたエージェントが歴史を変えそうになる方が多いように思える・・・

 

秀逸だったのは、スペインの英雄エル・シッドのDNAが、バレンシアとブルゴスにあるものとでは一致しないという事案。遺骨が同一人物の骨ではないということだ。

時間省のエージェントたちは調査のために10世紀に赴くのだが、そこにいたシッドはなんと過去の時間省のエージェントだった。もそも、アメリカの映画会社がシッドの映画を作るにあたって、リアリティを出すためにホンモノを見たいと言ったため、彼らをシッドの時代に連れて行ったが、あろうこと、敵と間違えられ、戦闘になってしまい、その時に本物のシッドが死んでしまったのである。

シッドがそこで死ぬなんて、歴史が大きく変わってしまうことから、このエージェントは自分がシッドの身代わりになったのだった。

かわいそうに、このエージェントは奥さんや子供に黙って、10世紀でカスティージャの英雄エル・シッドとして生きていくことになった。しかも、歴史のとおりに生きなければならないという、ありえない条件まで背負わされてなのだ。

このエージェントの荷物の中に家族の写真があって、現在から来たエージェントたちは、「やっぱりね」という感じになるが、本物のシッドの奥さん・ヒメナさん(映画ではソフィア・ローレンだった)は、ショックを隠せないというか、「なんて細かい絵なんでしょう!」と驚いていた。でも、このヒメナさん、さすがに偉くて、偽シッドが死に際にホントの奥さんの名前を呼んだら、手を握ってあげてた。

シッドは歴史どおりの生涯を終え、お骨も差し替え、めでたし、めでたし、なのだが、ヒメナがかわいそうすぎる。

 

そもそも、なぜこんなものがスペインにあるのかといえば、コロンブスの後援者で、レコンキスタを完了した女王・イサベル一世の時代の「ユダヤ人追放」に際して、あるユダヤ人が女王にこの時間の扉について告白、これを女王に献上するから、お目こぼしを・・・ということから始まっている。で、代々の王が管理していることになっているのだ。この回のイサベル一世役が、ドラマ「イサベル」でイサベル女王役だったミシェル・へネールだった。その上、時間省のエージェントの一人が「イサベル」でイサベル女王の夫・アラゴン王フェルナンド役のロドルフォ・サンチョだった。ちょっとやりすぎな気もするが、視聴者には大ウケなのだ。

 

そんなあり得ない設定のもとに繰り広げられる、スペイン史のパロディなのだ。

個人的に一番楽しいのは、大好きなベラスケスが時間省のエージェントになっていることだ。第一話から似顔絵係として登場。よくプラド美術館から文句が出ないものだ・・・ いや、超ウケているのだろう、あの国では。

その後は、どうしてもピカソに会いたいといって、長官を困らせたり、自分の絵が燃えるのはイヤだから歴史を変えてやる!とか、同僚の結婚式で飲みすぎたりと、とても人間的なベラスケスに、本物とは違う愛着を持ってしまう。

ゲルニカの帰還に際して、受取証が紛失してしまい、このままではアメリカからスペインに返してもらえない・・・という事案では、ベラスケスが直接ピカソにあって、その自筆のサインをもらうというミッションを果たすのだが、その時の会話がなんとも素晴らしい!

もちろん、ピカソはベラスケスだと知るわけもなく、ただのファンだと思っている。

 

P:プラド美術館は行った?

V:もちろん、行きましたよ。

P:素晴らしいでしょう。ずっと見てみていたい。

V:プラドではどの画家が気に入った?

P:ゴヤだよ、もちろん。

V:・・・・・ゴヤ・・・・

P:いや、ベラスケスの方が素晴らしいよ。ラス・メニーナス、見た?

V:もちろん、見ましたとも!(うれしくてたまらない表情がかわいい!)

(略)

V:あなたには、芸術で世界を変える力を持っている。必ずできるだろう。  

  その時に自慢したいので、サインをもらえますか?

こうやってベラスケスはピカソの自筆のサインを入手することに成功したのだが、それ以上に、自分をスペイン一の画家だとピカソに言ってもらって、とてもうれしそうだった。スペインの人々も涙が止まらないだろう・・・(そうでもないか・・・)

この後も、サン・アントニオ・デ・ラ・フロリーダ修道院フレスコ画で煮詰まったゴヤを励ましに行ったりと、エージェントとして活躍している。まるでスペイン絵画の守護神のようだ。

個人的にやりすぎだと思うのは、フェリペ二世が無敵艦隊が負けるのを阻止した上に、その後の歴史を大幅に変えて、現代では「スペイン帝国と時間の王」としてやりたい放題をやっている回だ。天気予報でも実際の国営放送のお天気お姉さんが、スペイン帝国、つまり南米、フィリピンの天気も含めて解説しているシーンがあったり、週一回「王様の時間」というベネズエラチャベス大統領がやっていた「こんにちは、大統領」みたいな番組までやっていたりと、ここまでやるのか、スペイン、恐るべし! という感じだった。

2019年秋には第4シーズンの放送が決まっている。残念なのは、他の番組のように国営放送のホームページでオンデマンドで見られないことだ。youtubeもすぐに削除されてしまう・・・

セルバンテスセンターがdvdを買ってくれるのを待つしかない・・・

第3シーズンのdvdもまだなのに・・・

日本でもNHKが同じような番組を作ればいいのに! NHKも最近ではウクライナのドラマのフォーマットでドラマを制作してるので、あり得ないことではないと思うが。

youtubeでは、ポルトガル語版があったから、ポルトガルかブラジルでも作っているはず・・・投稿しようかな。

 

似顔絵係は北斎がいいなぁ・・・

 

アート・セミナー

セルバンテス文化センターはスペインが世界各国に設置している国営機関で、スペイン語の学習や文化交流、イベント、図書館などがある。

 

これまでご縁がなく、映画の上映会ぐらいしか出たことはなかったが、2018年2月にプラド美術館展が開催されることから、2017年秋から2018年春にかけてプラド美術館に関するアート・セミナーが開講されたので、これに参加し、それ以降もアート・セミナーに参加している。

2018年に入ってからは、何を思ったのか、読書倶楽部、インテルカンビオといったイベントに参加するようになり、図書館まで登録してしまった・・・

そもそも、アート・セミナーは日本語だと思っていたので、気軽に申し込んだところ、よく見たらスペイン語でも講義だったので、当初は非常に緊張した。

先生のスペイン語がとても聞き取りやすかったので、何とか理解していると思うが、本当に理解しているかは不明。

 

アート・セミナーの先生は、サラマンカ大学で美術を学ばれたカロリーナ先生。

スペイン美術について、日本では学べないような最新の情報を盛り込んだ講義をしてくれる。ご自身もアーティストで、創作もされる。そのため、ベラスケスの講義の中で、実際に油絵を描くためにはどういった物が必要で、キャンバスの準備や絵の具の材料までを自分の経験からお話していただき、17世紀の画家がどのように絵を描いていたのか、今とどう違うのかを説明していただいた。

確かに、今なら絵の具や画材は画材店で買うことが出来る。しかし、当時はすべて自分で作ったのだ。気が遠くなるような話だ。

近代の画家とはそのあたりが違うのだろう。

また、ベラスケスを巡る当時の宮廷事情やイタリア絵画の影響など、本当に楽しい講義だった。

 

ベラスケスのシリーズが終わると、今度は毎回テーマを変えての講義になった。

毎回のテーマも非常に興味深いものばかりで、時にはゲスト・スピーカーを呼んだり、映像を見たりと、本当に飽きない。

 

前回のゴヤの講義では、ゴヤの隠し子・ロサリオがテーマだったが、これまでゴヤのドラマや映画を見ているはずなのに、彼女のことはどうやらスルーしていたらしい・・・

フランスで制作されたドラマでは、ゴヤの奥さんの病床で、ロサリオの母親を遠縁の娘と紹介していた場面をなんとなく覚えているが、その程度だ。

ロサリオはその後、ゴヤと一緒にフランスに行き、後年スペインに帰ってきてからは、女王イサベル二世の絵の講師にもなっている。

しかし、病気になって療養しているので、宮廷生活でのストレス、察するにイジメにでもあったのだろう。療養からマドリードに戻ってから、すぐに亡くなっているが、死因はコレラだったとのこと。ホントかな・・・

でも、生きていれば、女王の肖像画家として、プラド美術館でその絵を見ることが出来ただろうと思うと、残念でたまらない。

 

 

 

 

 

マドリード 地区の特色

マドリードは、そんなに大きな街ではないと思う。

道がわかれば、歩いてどこでも行けるくらいの大きさだ。

 

歴史を見ると、現在の王宮のある場所にアルカサールがあって、

その周りが城壁で囲まれていた。今でもアラブ時代の壁の遺跡がある。

その後、この城壁が広がって街が大きくなった。

 

中世から近世の王宮を中心としたあたりが街の中心になり、そこから外に膨らんで街が大きになっているのは、どこでも同じだろう。

現在のプラド美術館からレティ―ロ公園あたりは近世以降にここに王宮が置かれたことから発展してきた地域になる

 

北側に行くと、グラン・ビアを超えてチュエカ、チャンベリ、モンクロア、ティトゥアン。

南は、ラ・ラティーナ、ラバピエス、アリガンスエラ、カラバンチュエル。

西にカサ・デ・カンポが広がっている。

東側は、レティ―ロを超えてモラタラス、シウダ・リネアルと新興住宅街が広がり、

レティ―ロの北側、地図の真上には高級住宅街であるサラマンカ地区がある。

セントロからレティ―ロにかけては、歴史的建物や美術館、飲食店が多く、観光客でにぎわっている。ホテルなどの宿泊施設も多い。高速鉄道AVEが発着するアトーチャ駅もセントロの外れにある。

北側のサラマンカ地区には、東京でいうと銀座のような高級店が立ち並ぶセラーノ通りがある。このあたりは高級住宅街でもある。

サラマンカ地区とレティ―ロ地区の間のアルカラ通り沿い、地下鉄ゴヤ駅を中心とした辺りは、市場やスーパーも庶民的で生活しやすいところだろう。

セントロからグラン・ビアを超えたチュエカ地区はかつてはLGBTの方々多く、評判が悪かったが、彼らが街をきれいにしていったおかげで、今ではマドリードでも一番きれいで、おしゃれな地区になった。チャンベリも落ち着いた住宅街で、広場のまわりには素敵なアパートがたくさんある。

さらに北に行くと、官庁街を超えて、ティトゥアン地区に入る。ここで外せないのは、レアル・マドリードのホームであるサンティアゴ・ベルナベウスタジアム。個人的にはここがマドリードの中心なので、友人と話していると時々話が混乱する・・・

この地区には、日本の食品を扱う「東京屋」がある。またクワトロ・カミノスには大きな市場があり、地元の方でにぎわう飲食店もたくさんある。

サンティアゴ・ベルナベウから北に行くと、ツインタワーのあるプラサ・デ・カスティージャ、スペイン北部への鉄道の発着駅チャマルティン駅がある。

セントロから、地図で見ると下の方、ラ・ラティーナ地区、ラバピエス地区に行くと、かなり庶民的で、通りを一つ間違えると怖いこともあった。今はラバピエス広場には24時間営業のカルフールが出来て、以前ほど治安も悪くはないように見える。

ラ・ラティーナ地区から川沿いに降りていくと、一昨年までアトレティコ・マドリードのホームだったビセンテカルデロンスタジアムがある。解体工事が進んでいるので、いつまであるかは不明。このスタジアムの周辺のバールはとてもおいしくて、リーズナブルな上に親切だ。多くの外国人観光客がここのバールに立ち寄ったことで、アトレティコのファンになったという話を聞く。

現在、アトレティコのホームはマドリードの反対側、レティ―ロを超えてシウダ・リネアル、ほぼ隣の市になっている。ファンの皆さんはここまでいらっしゃるのだ。

もう一つ、マドリード市には「ラージョ・バジェカーノ」というチームがある。このチームがあるVallecas地域は、ウチの先生によれば、昔はバスで通る時も緊張するくらい怖いところだったらしい。今では新しいマンションも建っていて、それなりになっているように見える。でも、どうみてもお金はなさそうだ。スタジアムもとても小さい。スタジアムの真ん前にバス停があって、最初ここで降りたときに目の前の扉がスタジアムの扉だとは気が付かなかった・・・ そのくらい小さくてかわいい!

 

大まかにはこんな感じで地区が分かれているが、それぞれにとても興味深い。

これから、マドリードをより細かく見ていきたいと思う。

 

¡España maravillosa!  その2

スペイン歴史・文化のクラス

 

上智大学スペイン語講座を修了した後、講座で教えていた先生が個人でクラスを開いていることを知った。歴史や文化についてのクラスだという。

とりあえず、フットボールを見に行くくらいなら、これで大丈夫と思ったが、何を思ったのか、行ってみることにした。

講座の内容は、スペイン国営放送が制作している教材を使って、ネイティブの音声を聞き、受講者がみんなでリーディングする。その後で先生が内容を説明するというラクチンなものだった。最初のテーマは何だっか忘れてしまったが、映画監督のアルモドーバル、作曲家のファジャ、絵画ではベラスケス、ピカソ、ダリ、ゴヤ、各州の特色や市民戦争、レコンキスタなどの歴史と何でもありだった。

それだけでやめておけばいいのに、気が付けば、別のクラスまで通っていた。こちらは歴史や文化関係の書籍を読むというクラスで、絶対一人では読めない難しい本を先生が解説してくれた。時には新聞の記事を教材にすることもあった。

このクラスで学んだスペインの歴史や美術についての知識だが、どうやら日本では学ぶことが難しいレベルのものらしく、スペイン旅行の際や、セルバンテスセンターのクラスで驚かれることがある。

そうだろう、習っている本人も、一体これは何だろうと思いながらやっているのだから、他人が見ればそう思うだろう。

 

同時にスペインに関する日本語の本もかなり読んだ。歴史から小説、グルメに旅行記、何でもありだった。既に多くを処分したが、どうしても捨てられないものがある。それは、大漫画家・青池保子先生の「アルカサール 王城」だ。スペインの前身であるカスティージャ王国のペドロ1世の人生を描いた作品だ。フランスの作家、「カルメン」の作者として有名なメリメの作品をベースにしているとのことだが、キャラクターがそれぞれに素晴らしい! 連載していた雑誌の廃刊などで中断が10年以上もあり、一体どうなることかと思ったが、完結。先生のこの作品への深い愛情を感じる。

他にも、映画やドラマ、最初はスペイン語の勉強の一環のつもりが、「スペイン」という世界観にどんどんハマっていく。映画はアルモドーバルを筆頭に、次から次と好きな映画が増えていく。ドラマはNHKで放送された「情熱のシーラ(El tiempo entre costuras)」やCSで放送された「イサベル」「カルロス」などがあるが、その数は極めて少ない。フランスなどに比べて世界史での扱いも少ないわけだから、それほど話題性もない・・・

普通なら、ここで出てくるのは「フラメンコ」「スペイン料理」というジャンルだと思うが、「フラメンコ」は全く興味がない。「スペイン料理」というジャンルでも、バールでの飲食が主なので、星がいくつもついたレストランには無縁だ。現在日本でいうところの「スペイン料理」は全くわからない世界だ。唯一、国営放送の「マスターシェフ」という番組が好きだということ。この番組では星付きのレストランのシェフが素人料理人と一緒に番組を作り上げていくというもの。お正月の子ども版では、放送の翌日の全国ニュースでも優勝者が取り上げられる。

 

きっかけはなんでも、これだけ続くということは、よほどご縁があったに違いない。

今も歴史・文化のクラスやセルバンテスセンターのクラスで学び続けているので、また新しいご縁が生まれるかもしれない。

 

 

能登とスペイン、似てる?(ド田舎ガリシア州)

ポルトガルの上の方にある、ガリシア州

スペインでは田舎の代名詞らしい。それも能登に似ている・・・

マドリードからはバスで7時間ほど。電車ならもう少し早いかも。

イベリア半島の中でも雨が多く、食べ物が非常においしい!

ヤコブの墓があるサンティアゴ・コンポステーラもこの州にある。

フランスから巡礼の旅をしてここの大聖堂でボタフメイロの煙を浴びる映像は

テレビでもおなじみになっている。

日本からも近年多くの巡礼者があるようだ。

なんでも、しばらくは大聖堂の改修でミサは近くの教会でするようなので、

巡礼に行く方は注意が必要。ボタフメイロはないもよう。

 

タコ

タコのガリシア風(Pulpo a la gallega)というバールの定番料理がある。

タコとジャガイモにオリーブオイルとパプリカ・パウダーと塩をかけただけの、超簡単料理だ。全国のバールで食べることができる。

タコは能登地方でも冬の味覚のひとつで、昔は取り立てのタコを茹でてそのままかじりついたものだ。タコの種類はよくわからないが、どのバールで食べても柔らかくておいしい。水族館には「タコの館」なるコーナーもある。

 

カキ

近年は能登でもカキが名産の一つになっていて、「のと鉄道は」、カキを目当ての観光客(中国の方も多い)でいっぱいだ。日本のカキと種類が違い、丸い形だ。これにレモンをかけていただく。ワインはリベイロをおすすめされた。

カキを殻から外してくれるセニョーラたちも、ウチの近所のおばちゃんたちみたいで、なんとも懐かしい感じがした。

 

漁師の皆さん

どこの町でも漁港の方に行くと、日本の定置網のようなものなのか、おじさんとおじいさんと、時々若者が網の手入れをしている。この風景も能登の漁港の風景にそっくりだ。ちょっとお話してみたが、方言も同じくらい難解だった!

 

ガリシアは魚介だけではない。肉もおいしい。畜産も盛んなのだ。ア・コルーニャには、肉料理がおいしいバールやレストランがたくさんあった。しし唐の焼いたものをつまんでいると、いい感じで肉が運ばれてくる。最初はその大きさにひるんだが、食べ始めると止まらない。一体何グラムあったのかは知らないが、完食。おいしい。

 

ワイン

最近は穴水町能登ワインさんをはじめ、能登でもワインが作られている。身びいきなのかもしれないが、おいしい。時々、贈答に使うが好評なので、もっとメジャーになることを願っている。

ガリシアのワインと言えば、アルバリーニョのワイン。初めて飲んだ時、そのフルーティな味わいにびっくりした。つい、バールで3杯くらいお代わりした。何かをつまむのも、もったいないくらいにワイン単独でおいしかった。

他にもカキにあうリベイロやオウレンセの山間部のリベイラ・サクラなどがある。

ガリシアは湿気の多い地方なので、ぶどうは他のスペインの地方と異なり、日本のように棚で栽培される。「緑の宝石(だったかな)」アルバリーニョの収穫時期には盗難が多く、ニュースでも話題になる。

 

歴史

海沿いなので、外敵からの侵入は当たり前。ガリシアイングランドの脅威にさらされていた。中世にはマリア・ピッタさんという女性がア・コルーニャイングランドから守ったということで、広場には銅像もある。古代にはケルト文化の影響があり、サンタ・テクラ遺跡にはケルト風の住居跡がある。ガイタという楽器もバグパイプが基になっているらしい。

能登は大陸に近く、古代には韓国や中国との交流があり、国際的なところだった。縄文時代から高度な文化があり、能登町縄文真脇遺跡にはその痕跡が残っている。

昔は浜で知らない文字(ハングル)が書かれた瓶が流れ着いていた。

方言でも、中国語や韓国語に似た発音を聞くことができる。

能登ガリシアも、外に働きに出る人が多い。都会に出る人、出稼ぎに行く人・・・

ガリシアでは新大陸に出稼ぎに行って一財産築く方も多かった。

能登では、船乗りになる人が多く、小学校の頃は「今日はお父さんが帰ってくるから」というクラスメートの言葉に、意味はわからないものの、遠くに働きに行っているのかな、と思っていたものだ。

 

説明するのは難しいが、人の感じや食べ物が能登に似ていて、7日間滞在したが、とても落ち着いて、帰りたくないと思ってしまった。

海も似ている。ガリシアの海は大西洋になるが、いつも白い波が立っていて、まるで能登の海のようだった。母に写真を見せると、ウチの前の海で撮った写真だと思った!とのこと。まさか波の花はないと思うが。

 

違うところは、ガリシアには大きな港があることだ。歴史的にアメリカ大陸との往来が盛んなことや、イングランド方面も近いことから、工業製品もここを通過して欧州各地に運ばれることが多い。飛行機でしりあったお兄ちゃん(ガリシア人)のいうことには、彼は日産の下請けで働いていて、ヨコハマというところに研修で行くのだとか。イングランドで組み立てた車両の最終チェックをして、バルセロナに輸送するそうな・・・  他にも、工場も多く、スペインの工業の一翼を担っているらしい。

 

地図で見るとサンティアゴ・コンポステーラの少し下の方、ポルトガル寄りには

ヨーロッパ最大の漁港があるVigoがある。

もうかなり昔になるが、Vigoのフットボール・チーム、セルタ・デ・ヴィーゴの試合を見に行ったところ、試合途中から大雨になり、ハーフ・タイムにスタジアムの外を見ると、ほぼ水没していた。その辺にいたスタッフに、大丈夫なのか、ここはいつもこうなのかと聞くと、「そんなに頻繁じゃないから。このくらいなら大丈夫!」と笑顔で答えてくれた。

試合が終わったころには、小降りになり、なんとか行けそうか!と思っていたら、後ろから日本語で声をかけられた。振り向くと、若いスペイン人の女性がいた。お話を聞くと、日本人のご主人と車で来ているので、よかったらセントロまで乗せていってくださるという、ありがたいお申し出だった。車はトヨタだった。

ご主人は、日本の大学を出て、セビージャでスペイン語を習って、この町の漁業関係の会社に就職されたそうだ。福島県いわき市のご出身とのこと。

当時2部にいたセルタを見に来るとは、物好きだと言いわれた。

ガリシアではいつ雨が降るかわからないので、傘を持ち歩くといいですよ、と教えてくれた。そうだ、石川県の方でもそうだなぁ。

ガリシアは雨が多いとは聞いていた。傘も持っていた。しかし、スタジアムが水没するほどの雨がこんなに急に降るなんて、想像もしていなかった!

本当に、運がよかった。ご親切に深く感謝している。